日曜日のおはなし  4月19日

 復活節第3主日(ルカ24・35-48)
 食べ物は
     彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエス
     は、「ここに何か食べ物はあるか」と言われた。そこで、焼いた魚を
     一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
      

骨身を惜しまず働くためには、まず自分の中に骨身をつくらなければなりません。自
分の中に取り入れるものが、血となり肉となり骨となる必要があります。

私たちは日曜日のミサの中で説教を聞きます。日本の教会の日曜日の説教は、格調高
いことで知られています。ところが聞く方が右の耳から左の耳へ素通りしてしまって、
ちっとも身に付かないし骨にもならないということが時々起こります。繰り返しますが、
説教そのものは格調高いものなのです。

その原因はただ一つ。説教を頭でとらえ、頭で考えているからです。分かったか分か
らなかったかのレベルでとらえているからです。物が身に付き、骨となるためには、そ
の物について考えるだけでは到底かないません。その物を食べて味わう以外にはありま
せん。

キリストを身に付け、骨とすることがキリスト教を学ぶことです。ですから頭で勉強
するだけでは足りません。キリストを食べる必要があります。

きょうの聖書の中で、復活されたイエスさまは、しきりに食べ物はないかと催促され
ています。そして「骨も身もある自分をよく見よ」と言われます。

弟子たちはまだ、復活のイエスさまを幽霊のレベルでしかとらえていなかったのでし
ょう。だから復活がちゃんと身に付いていなかったのです。

食べ物という言葉は「賜り物」から来ていると言われます。食べ物は、賜り物なので
す。実際に口にする物は、それぞれのいのちを持ったものです。そのいのちを拝領する
ことが食べること、すなわち賜ることなのです。

いのちを賜って、そのいのちを自分自身が生きていこうという決意が整ったとき、
「いただきます」という食前の祈りの言葉が出てきます。

事実、食された物は自分の体内に入り、消化され、血となり肉となり骨となります。
こうして骨身を惜しまず働く人間が出来上がります。

理屈のキリストもこの世にはある程度必要です。ただ、それだけでは身にも骨にもな
りません。きょうの福音のイエスさまは、ご自分が実際に食べて見せることによって、
頭で学ぶだけの幽霊の段階の「キリスト理解」を、一歩抜け出すよう勧めておられるよ
うです。

やがて弟子たちは最後の晩餐を思い出し、その記念を定着させていくことになります。
それは取りも直さず、現実の場でイエスさまを自分たちの身に着けたいからにほかな
りません。

こうして彼らはイエスさまを自分たちの骨身とし、この世界の人々のために骨身を惜
しまず働く者となっていくのです。

ちなみに説教も分かるものではなく、身に付けるものなのです。

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日曜日のおはなし  4月12日

 

復活節第2主日(ヨハネ20・19-31)
 傷口
     「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなた
     の手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく、
     信じる者になりなさい。」
        

楽園のアダムと同じように、トマスもまた「知恵の木」(創世記2・9参照)の実を
食べ、「命の木」(同)に到達できなかったようです。「知恵の木」と「命の木」が中央
にそろって、初めて楽園が成立します。

イエスさまの尊い傷をくぎの跡などとしてとらえ、自分が信じるための証拠物件にし
ようというのですから、的外れもいいところです。

「分ける」とか「分かる」という言葉があるように、知恵の得意技は分断して見極め
ることです。花びらを一ミリの数億分の一まで分けていき、その構造を見極めて、花の
ことが分かったなどと言います。そこまではいいのですが、そこに潜むいのちの神秘は
少しもとらえてはいないということがあります。まさに「知恵の木」と「命の木」の分
断です。こうして人間は今も楽園を喪失します。

翻って、いのちの営みは全体と全体の向かい合いです。誕生は人間のすべてに及び、
死もまた全体の営みです。時々、〝口の悪い人〟のことを言うとき、彼は墓に入っても
口だけは生き残るのではないか、などとうわさしますが、現実には起こりえないことで
す。

イエスさまの傷は、くぎの跡などという証拠物件ではありません。たまたま負ってし
まった単なる傷でもありません。すべての人間が背負っている傷への傷口なのです。そ
の傷はいのちへの入り口と出口を持ったものなのです。だから傷口であり傷への出入り口です。

大地は渇くとひび割れて傷口を広げます。それはいのちを養う恵みの雨を存分に吸収
するためです。この傷口についての知恵によるせんさくは無用です。トマスの中で、イ
エスさまを信じるための証拠物件であったくぎ跡が、次第に人間の傷口へと変容してい
ったというのがきょうの聖書のメッセージなのではないでしょうか。

くぎ跡がここにもある。あそこにもある。いやこれはかすり傷だなどという確認作業
は、トマスにはもはや無用です。頭の先の一部分の作業ではなく、トマスという人間の
ひざからの崩れ、すなわち全体でいのちへと向かい合う瞬間が訪れたのです。

「わが主、わが神よ」という信仰宣言は、こうして生まれたものと思われます。くぎ
跡ではなく、傷口を通って、トマスもまた墓に入り、墓から出てきたのです。トマスと
いう人間の楽園回復であり、復活そのもです。

信仰とは真理の確認作業のことではなく、いのちの営みのことです。自分の全体の明
け渡しであり、まさに死からいのちへの復活です。

生命科学などという人間の「知恵の木」登りが、「命の木」登りとつながることを願
いたいものです。楽園喪失にならないために。

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日曜日のおはなし  4月5日

落ちこぼれても
     婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そ
     して、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
     
聖書講座のようになって恐縮ですが、同じ復活の場面でも福音記者によって記述の仕
方が違っています。

女性たちが墓に行ったこと、墓の入り口の大きな石が取りのけられていたことなどは
同じですが、メッセージやそれに対する反応の仕方が違っています。マルコによる福音
書では、特に復活のメッセージを聞いた女性たちの反応に特徴があります。

ほかの福音書によれば、女性たちはいずれも、恐れを抱いたにもかかわらず、弟子た
ちの所に知らせに行ったと書かれているのに、マルコによれば知らせに行っていないの
です。

「さあ、行って弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。『イエスはあなたがたよ
り先にガリラヤに行かれます。かねて言っておられたとおり、そこで、あなたがたはイ
エスに会えるでしょう』と」「婦人たちは墓を出て逃げ去った。われを失うほど恐れお
ののいていたからである。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからであ
る。」(16・7-8フランシスコ会聖書研究所訳)

例えば、マタイ福音書にはこう書かれています。「婦人たちは、恐れながらも大いに
喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(28・8)と。

どちらが本当なのでしょうか。復活の知らせから教会は事実上始まったのであり、弟
子たちはその知らせによって初めて動き始めたわけですから、知らせがなかったはずは
ないのです。本当かそうでないかというレベルで言えば、マルコの記述は本当でないと
いうことになりましょう。

しかしここにそんなレベルでないもの、つまりマルコ福音記者がどのような心で復活
の福音を受け取ったのかということが表れていると思います。

ご存知のように、マルコの福音書には所々に福音に対する弟子たちの無理解を強調す
る場面があります。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになってい
るのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(8・17-18)
などです。

この背景には、マルコ自身の〝落ちこぼれ体験〟がかなり反映されているのではない
かと思われます。彼はパウロと共に宣教に出かけるのですが、挫折してしまいます。そ
の後、同じように失敗を重ねたペトロのもとで働くことになります。

その彼が福音書をしたためた時、そんな弱い自分にも神さまの恵みは注がれており、
福音は人の弱さや醜さを突き抜けて、人間のもとに到達していることを示そうとしたの
だと思います。そしてその自分が、栄光の福音書を書いたというささやかな誇りも。

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日曜日のおはなし  3月29日

   受難の主日(枝の主日)(マルコ11・1-10)
 いのちの調味料
     二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の
     服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服
     を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て
     道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
     「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
     祝福があるように……」   

私はまだ本当の産みの苦しみを知りません。しかし、ほんの少しですが見当はつきま
す。同様に、死の苦しみもまだ知りません。でも、少しだけ推し測ることはできます。

というのは、こうして性懲りもなく文をつづることを続けていますと、これはまさに
産みの苦しみだと感じることがしばしばあるからです。七転八倒してもまだアイデアが
浮かばない。ストレスのあまり腹が臨月のようにパンパンになって、ようやく一つの考
えに到達するということの繰り返しです。

それならいっそ、やめてしまえば楽になるのにと考えます。そうすれば読者も変な考
えに悩まされることもなくなり、日本はもっと平和になるのに。それなのに、どうして
性懲りもなく続けるのかというと、どうしようもなく楽しいからです。苦しいと言ったり楽しいと言ったり、何が何だか分からなくなりますが、これがすなわち産みの苦しみの正体なのだということを言いたいわけです。

苦しいけれど楽しい。これが、命の持つ深い味だと思います。少なくとも実際にこの世
に命を生み出した経験をお持ちの方は同意していただけると思います。あるいはこの世
界を命に満ちたものにしようとして、苦しみをいとわない方々は分かってくださると思
います。

産みの苦しみがあるように、死の苦しみがあります。というより、死の苦しみも産み
の苦しみです。そしてその苦しみが命の誕生につながっている限り、それは真の意味で
楽しみです。ですから産みの苦しみも、死の苦しみも、命をじっくりと味わうためのこ
の上ない上質の〝調味料〟ということになります。

きょうは、イエスさまの堂々たるエルサレムへの入城を記念します。周囲を数キロの
城壁で囲まれたエルサレムは、いわば神さまのいのちをこの世界に向かって産み出す
〝分娩室〟です。

いよいよその〝分娩室〟にイエスさまが入城なさいます。多くの人々も連れ立って行
きました。しかしそれは、命というより死への行進であったようです。

このように、さまざまな死と命が複雑に交錯する行進は今も変わりありません。つい
15年前、全世界はいのちの世紀である二十一世紀へと入城したはずでした。しかしそれ
は、ますます死の行進の様相を帯びてきています。ことしもイエスさまと共にエルサレ
ム入城を試みてみましょう。もしそこで産みの苦しみと死の苦しみをいのちの〝調味料〟
としてとらえることができるなら、きっと一週間後、復活のいのちを味わうことができ
るでしょう。

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日曜日のおはなし  3月22日

四旬節第5主日(ヨハネ12・20-33)
 地に落ちて
     「……一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だ
     が、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、
     この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。……」
        

「地道」という言葉があります。大地の上に造られる道は、「道路」と呼ばれますので、
これはたぶん、大地の中に造られている道のことであるに違いありません。

地上に降り注ぐ雨は、この地道を通って地中深く染み込んでいくのでしょう。そして
大地は、時に何百年もこれをその懐におさめ、限りなく透明な清水へと仕上げ、地表に
わき出させます。そして地表の命を養います。

わき出る水も、養われる命も、一様に大地の味である地味を持っています。その味わ
いはたぶん、じっくりと地道に生きた地味な人にのみ許されるものでもありましょう。

地味とは、どんな味のことを言うのでしょうか。味と色について語るなかれということ
ばがあります。味は味わってもらう以外に分かってもらう手段はありません。色も見て
いただくしかありません。理論的に説明しても、それは文字どおり理論でしかありませ
ん。そのことを重々承知のうえで、あえて地味について言葉を弄してみたいと思います。

落ち葉が敷き詰められたような山道を歩くと、命がよみがえるような気持ちになりま
す。ふと足もとを見ると、ほぼ土と化した葉が木の根元を覆っています。

葉っぱは自分の出身にこだわることはありません。樫の木出身の葉は、樫の木以外の
木の肥やしにはならないなどと主張することはありません。等しく土となって、さまざ
まな命を養うのです。

人間が他を退けて一種類だけ栽培し始めた時から、土はやせ細り始めました。せっせ
と手入れをしなければならなくなりました。自然の森に手入れはいりません。もっとも、
酸性雨などで自然が自然でなくなっているので、そのための手入れは必要になってしま
いましたが……。

土の中にはさまざまな虫がいて、これまた土づくりに余念がありません。こうしてそ
れぞれが各分野を受け持ち、多様な命の世界をつくり上げていくのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの
実を結ぶ」。このことばはもちろんイエスさまの死の意味を説いたものではありますが、
同時にイエスさまに連なる者の死をも語っています。

種としての死、それが私たちの目指すべきものです。私は私として個人であり、個性
を持つ者です。しかし同時に全体を含む者です。それが種の正体です。種には葉っぱは
見えませんが、すでに葉っぱを含み持っています。

多くの実とは数の多さのみならず、多様な実でもあります。いろいろありながら、し
かもつながっているのです。

こんなことを目指す地味な生き方を身に付けたいものです。

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日曜日のおはなし  3月15日

 

 

四旬節第4主日(ヨハネ3・14-21)
 自動制御装置
     神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を
     信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
        

人生は、重き荷を負って坂道を上るがごときであり、荒海を渡るがごときです。あら
ゆる難関をくぐらねばなりません。徳川家康さんに言われなくともそのとおりです。

それだけに、あまりがんばり過ぎると優秀な頭脳も
心もポンコツになりかねません。ところがそこはよく出来たもので、人間には本来〝自
動制御装置〟が付いていて、そのような行き過ぎを自然に抑えるようになっているらし
いのです。

あまりにも大きな恐怖に襲われると、そのことをきれいに忘れさせてくれる装置、す
なわち記憶喪失になってしまいます。恵まれた才能に駆り立てられて、突っ走っている
と、突然、無気力の世界に引きずり込まれることがあります。いずれもその人を守るた
めに、神さまが取り付けてくださった〝自動制御装置〟が働いたのです。もしこれが作
動しなかったら、身が持たず、永遠の休憩を取るしかなくなってしまいます。

〝自動制御装置〟は人間を崩壊から守ってくれるものですが、必ずしも悪いことから
守るだけではありません。あまりにも良すぎることからも守ってくれるのです。例えば
人間が神さまと協力して、この世に命を産み出すということは、ちょっと考えても考え
なくても、とてつもなくすばらしいことです。おそらくこのことの本当の意味を知った
ら、人間は到底もちこたえられず、失神してしまうでしょう。

だから人間は、命に対してずいぶんと鈍くつくられています。そのために、「自分の
体でしょ。何が悪い」などと言って、いわゆる「援助交際」に走ったりします。生まれ
出たわが子を自分の腕に抱いてみて、ようやく少しだけ、命の〝けた外れた〟価値に気
づく程度です。おそらく初めからわかっていたら身が持たないことでしょう。何十年か
かけて、少しずつ分かる程度が一番良いという神さまの計らいなのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一
人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。これはきょうの聖書のことばですが、
聖書のほかのことばが全てなくなっても、このことばが残っていれば、問題ないと言わ
れるほどの、究極のことばです。ですからこれは全聖書を要約することばでもあります。

しかし私たちは、これを聞いてもそんなに驚くことはないし、ましてや失神すること
はありません。〝自動制御装置〟が働いて、かろうじて助かったのです。

しかし今は四旬節で〝復活訓練〟の時期でもありますし、自動制御を少しだけ突き破
って、まともにこのことばと向かい合ってみてはいかがでしょうか。そして静かに数回、自分の心の中でつぶやいてみるのです。

ただし失神にはご注意を。

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日曜日のおはなし  3月8日

四旬節第3主日(ヨハネ2・13-25)
復活訓練
     イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の
     金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「この
     ような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはな
     らない。」
        

四旬節も深まってまいりました。四週間後には復活祭を迎えることになりますが、
〝復活訓練〟は進んでおられるでしょうか。

きょうの聖書には、いつになく激しいイエスさまの姿が描かれています。神殿の境内
に乗り込んで、縄でむちを作り、供え物用の牛や羊を追い出し、両替人の机をひっくり
返すなど、大暴れをしたというのですから、ただごとではありません。

そうして、なぜそんなことを、と問われると「この神殿を壊してみよ。三日で建て直
しみせる」と言われたというのですから、これまたただごとではありません。

しかし弟子たちには分かったのです。このただならぬ行動の背景には、深い意味が隠
されていたことが。「イエスの言われる神殿とは、ご自身の体のことだったのである」
と。つまり復活の前ぶれ、その〝予行演習〟であり、「現実の場に復活を置き換えると、
例えばこのようなことになるよ」ということを身をもって解説しておられたのです。

どうりで激しいはずです。何しろ死から命へのよみがえりですから、上品におとなし
くというわけにはいかないでしょう。

あの復活の墓の大きな石と同系列の岩が、この神殿にもあったのです。それはイスラ
エル社会の〝本丸〟である神殿の、幾重にも構築された隔ての壁のことです。

この〝大暴れ事件〟は異邦人の広場で起こったものです。そこでは供え物用の動物の
売買や献金、その他の用に備えて両替の必要もあるので、そのための店が並んでいまし
た。だから当時の習慣上、必要なことでもあったのです。そんなことはおかまいなく暴
れまくったというのは、そんな社会習慣の裏に潜む、人間のいのちをむしばむ、一部の
人々の利権や差別が極みにまで達していたということでしょう。

ほかに、女性を隔てる壁があり、さらにイスラエル人の男性のみ入ることの出来る広
場があり、さらに特権階級の人々と祭司のみしか立ち入ることのできない場所があり、
それぞれ分厚い壁で隔てられていたのです。とすると、この大暴れはあの復活の墓の中
のイエスさまの姿でもあったということになります。イスラエル社会という墓の中のい
のちへの激しい胎動であったからです。

あの墓の大きな石と同様、今、隔ての壁は取り除けられているのでしょうか。連日報
道されるところによれば、特に中東方面は人間の憎しみのるつぼのようです。

人々の間の隔ての壁は、今も厳然としてそびえています。きょうの事件は、私たちの
身の回りを含めた、生々しい現実の中でこそ復活は成し遂げられなければならないこと
を示しています。

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日曜日のおはなし  3月1日

 

四旬節第2主日(マルコ9・2-10)
 ほれぼれ
     イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のど
     んなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に
     現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言
     った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
     ……」

ある会合で、「いのち、またの名を全体と言う」と発言したら、何のことか分からない
という一種のしらけムードが広がりました。「君こそわが命」と言うとき、それは君の
「一部」ではなく「全体」を、自分の全体でとらえたときの心境を表現しているのでは
ないかと申し上げたら、少しは納得していただくことができました。

このことを別の言葉で言えば、「ほれる」という言葉になります。ほれるとは、全体
による全体の理解、すなわち命の味わいのことなのです。

山登りが何より好きな人に「なぜ山に登るのですか」と尋ねると、「そこに山がある
から」と答えるのだそうです。これは理屈で考えると答えになってはいません。山の魅
力的な要素を何点か取り上げ、ゆえに山登りをするのだという、筋の通った論理が見受
けられないからです。

「山があるから」とは、「山にほれたのです」ということでしょう。「ほれ」は論理を
超えています。そして、論理から行動はめったに生まれませんが、「ほれ」は必ず行動
に結び付き、命を駆り立てます。

「あき空を はとが とぶ

それで よい

それで いいのだ」                 (八木重吉「鳩が飛ぶ」)

これもまた論理的に言えば、秋空に鳩が飛ぶことがなぜいいのか、筋の通った説明に
はなっていません。ほかの鳥が飛んでもいいし、秋空でなくてはならない理由もありま
せん。たぶん、秋の夕暮れのことだったのではないでしょうか。真っ赤な夕焼けの中を
鳩が一羽スッと飛んでいきました。そんな景色のただ中にあって、自分の全体が大自然の中
に包み込まれていくのを自分の全感覚でとらえ、圧倒されたのでしょう。

もう何ンにもいらない。大自然の懐に抱かれて、大安心の境地に至った時、あふれてきた
言葉だったのではないでしょうか。

ペトロも詩人の素養があれば、もう少しカッコイイ言葉を発したのでしょうが、目の
前のイエスさまの光景にほれ込んではみたものの、何やらわけの分からない言葉を吐い
てしまいました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と。ここまではまともですが、そのあとのセリフはもうメロメロです。

しかし彼は、論理の片隅でイエスさまをとらえたのではなく、この時、全身全霊でと
らえたのです。つまりイエスさまにほれ込んだのでした。

「イエスさまこそわが命」という、ペトロの中の、いわば復活をこの〝ご変容事件〟
に読み取ってみたいものです。ちまちまとした理屈に走るのではなく、確固たる行動へ
と命を駆り立てる修練もまた、復活祭への準備だと思うからです。

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日曜日のおはなし  2月22日

四旬節第1主日(マルコ1・12-15)

 復活へ

      それから〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間
     そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。
                 
「命を運ぶ」と書いて「運命」と読みます。私たちの命は、自分で運ぶというより、
どうやら何者かに運ばれているもののようです。そうでなければ、もっと思い通りになって
いいはずなのです。しかし実際には、「運ばれてしまった」というのが実感でしょう。

その命の〝運び屋〟のことを、きょうの聖書は「霊」と呼んでいます。「〝霊〟は
イエスを荒れ野に送り出した」と。

かつてイエスさまは、父である神さまとのだんらんの中から、マリアという霊の花道
を通って、この世界という荒れ野に送り出されたのでした。そしてまた、新たな節目に、
霊による運びがなされるのです。その新たな節目とは、本格的宣教への出発を意味しま
す。

四十日とは、必ずしも厳密な期間のことではないらしいのですが、先日、十三年にわ
たって「鬱」の荒れ野に運び込まれ、ようやく復活の時を迎えつつある方の体験を聞く
機会を得ました。

まさに脂の乗り切った年齢を迎え、猛烈なスケジュールを難なくこなし、さらなる加
速のためにアクセルを踏み込もうとしたその瞬間、そのアクセルは突然急ブレーキとな
ってしまったのです。

十三年かかってようやく荒れ野からの出口が見えた今、それはスピード違反への自動
警報装置の作動であり、すべては神さまの恵み、霊の運びであったと彼は語るのです。

順風満帆、すべてがぎらついていたあの時、あの場所への運びは、むしろ悪霊による
運びではなかったかと感じていると言います。今こそ霊の識別をすべきであり、自分の
ケースに限らずこれは現代社会が必要としている作業であることを、その壮絶な体験の中からくみ取られたようです。

日本で名の通った一流の心理療法専門家にも見切られた彼は、米国で毎日五、六時間
に及ぶカウンセリングを経て、一歳の時の幼児体験へとたどり着きました。そしてその
傷に向き合い続けること数年、その傷口から恵みの雨が染み込んでいくのを感じ始めて
いました。

それは、復活を目前に控えた聖週間でもあったのでしょう。「ブラームスの第一交響
曲第四楽章の復活の場面が、まさに自分の中で、今、奏でられている」と語るその顔は、
わずかに憂いを帯びて照明に映え、神々しくさえ感じられました。音の連なりにすぎな
いような曲が、こんなにもドラマを含んだものかと、あらためて感じ入った次第です。

人間関係の砂漠化が頻繁に語られるこのごろ、私たちもそれぞれの荒れ野へと
運ばれています。しかしそれは、またとない恵みの時かもしれないのです。

「灰の水曜日」の灰の荒れ野に洗礼の水が注がれて、四十日後、新たな命へと到達で
きますように。

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日曜日のおはなし  2月15日

年間第6主日(マルコ1・40-45)

 口止め

     「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司
     に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明
     しなさい。」
            
「掟のもとに生きる奴隷のようではなく、恵みのもとに生きる自由な者として」。これ
は聖アウグスチヌスの言葉です。

これはたぶん、無数の律法という掟にからめ取られて身動きできなくなっていた
「旧約時代」と、イエス・キリストの到来により始まった「新約時代」の違いを表した
言葉でもありましょう。

外から人間を規制しようとすれば、次第に不信と猜疑を生み出し、これを押さえ込む
ために規制に規制を重ね、ついには身動き取れなくなることは、歴史が証明していると
ころです。

イエス・キリストの到来の意味は、外からの規制による秩序回復ではなく、内からの
解放にあります。私たちの内部構造は、それこそDNA(遺伝子の本体を成す核酸の一
種)のかなたから根本的に変えられ、その地殻変動ともいうべき変化に気づいたならば、
もはや外からの規制など何ら必要としないほどの自由の身へと解放されていくのです。

聖者はそのことに気づき、自らその解放を体験し、救いとは抽象的な概念ではなく、
まして大過なく過ごしていくための規則などではなく、一種の内的爆発であることを説
いたのです。

きょうの福音にも、一人の人間の内的爆発が記されています。重い皮膚病がいやされ
た後、彼は奇妙な口止めをされてしまいます。「これはあなただけにあげる恵みだよ。
だれにも言ってはいけないよ。私とあなたのヒミツ!」というわけでしょう。

「これは秘密だよ。絶対にほかの人に言ってはだめだよ」。人はよくこういう言い方を
して、逆に言いたくなる心理効果を狙う場合があります。イエスさまにも、そんな狙い
が多少あったのかもしれません。

しかしそれ以上に、このいやしはこの人のみの恵みだったのです。イエスさまは、お
そらく全宇宙を総動員してこの方に迫っていかれたのでしょう。そして全宇宙を超える
愛をもって、この方を抱擁されたのです。「この宇宙に、あなたという人間はたった一
人しかいない」とでも言うように。

このいやしの味が味わわれるためには、少々の時を要します。三日目によみがえると
言われたように、復活のためには、死と沈黙の期間がいります。この人の中の神さまの
いのちの復活のためにも、熟成の時が必要だったのです。これが奇妙な口止めの狙いだった
のではないでしょうか。

事実、彼はすべてを解き放たれ、止めどもなくほとばしる自由の言葉を自分のものに
したのです。そしてそれは、彼が「旧約」を抜け出し、「新約」に突入した瞬間でもあ
ったのでしょう。「掟のもとに生きる奴隷」からの解放、恵みの中の自由、これは多くの規制の折の中に閉じ込められているように見える現代人の重要なテーマでもあります。

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