日曜日のおはなし  3月23日

 四旬節第三主日(ヨハネ4・5-42または同5-15、19b-26、39a、40-42)

 井戸掘り

     「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』は童話ではありますが、むしろ大人向けの童話とも言えるものです。この童話の中で、主人公である王子さまが仲良しになったキツネにこんなセリフを言う場面があります。「砂漠が美 しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ‥‥‥」と。

何もない乾き切った砂漠なのに、何かがひっそりと光っているので す。砂漠では星が降るように美しいともいいます。それは表面の美しさではなく、渇きを癒してあまりある、こんこんと水の湧き出る井戸をかかえ持っているからだというのです。

70年前、長崎にも砂漠の井戸に思いを寄せた方がおられました。原爆の証人として名高い永井隆博士です。夕方、母を失った二人のいとし子たちに語りかけるのです。「ほら、隣のおばさんが夕餉の支度をするのかしら。つるべで水を汲んでいる。つるべは空っぽで井戸の底に降りていくから、水をいっぱい入れて上がってくることができるんだよ」と。

乾き切った原爆砂漠にも井戸はあったのです。そしてそこから水を汲む人々がいたのです。永井博士も人間の憎しみのなれの果てである原爆砂漠に伏して、それでもその砂漠は井戸をかかえ持っていることの予感に身震いしていたのではないでしょうか。

二人のいとし子も母を亡くした渇きを覚えながらも、父と子3人の極貧の中で、自分たちたちなりの井戸を発見し、掘り進んでいたにちがいないのです。

今日の聖書にも井戸物語が語られています。サマリアの女と呼ばれ一人の女性が昼ごろ水汲みにきました。そこでイエスと出会うのです。この井戸も文字通り砂漠にあったようです。灼熱の中東では真昼に水汲みなどしないのに、この女性が水汲みに来たというのは、人目を避けてということであり、それなりの事情があってのことでしょう。つまり彼女も渇いていたのです。その渇きはどうやら男遍歴にあったようです。

男が6人いたと指摘され、渇きの根源に迫られ、それでも彼女は、これまでの男とは違うものを感じていたのでしょうか。古傷をあばかれ、血を噴き出させられながらも、彼女は、自分の中の井戸掘りをしている自身に気付いたにちがいありません。はじけたように自分の体験を語るべく、さげすむ者の住む町へととって帰すのです。

大自然の砂漠化も進んでいると言われています。それは人間の砂漠化と無関係ではないようです。しかし、砂漠は同時に井戸を持っています。

ひねるとジャーで水が得られる現代っ子に井戸はなじみのないものかもしれません。つるべとは何かと尋ねるかもしれません。しかし、渇きといらだちはおなじみのようです。現代の井戸掘り技術の開発が求められています。

 

 

 

 

 

 

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