日曜日のおはなし  2月22日

四旬節第1主日(マルコ1・12-15)

 復活へ

      それから〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間
     そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。
                 
「命を運ぶ」と書いて「運命」と読みます。私たちの命は、自分で運ぶというより、
どうやら何者かに運ばれているもののようです。そうでなければ、もっと思い通りになって
いいはずなのです。しかし実際には、「運ばれてしまった」というのが実感でしょう。

その命の〝運び屋〟のことを、きょうの聖書は「霊」と呼んでいます。「〝霊〟は
イエスを荒れ野に送り出した」と。

かつてイエスさまは、父である神さまとのだんらんの中から、マリアという霊の花道
を通って、この世界という荒れ野に送り出されたのでした。そしてまた、新たな節目に、
霊による運びがなされるのです。その新たな節目とは、本格的宣教への出発を意味しま
す。

四十日とは、必ずしも厳密な期間のことではないらしいのですが、先日、十三年にわ
たって「鬱」の荒れ野に運び込まれ、ようやく復活の時を迎えつつある方の体験を聞く
機会を得ました。

まさに脂の乗り切った年齢を迎え、猛烈なスケジュールを難なくこなし、さらなる加
速のためにアクセルを踏み込もうとしたその瞬間、そのアクセルは突然急ブレーキとな
ってしまったのです。

十三年かかってようやく荒れ野からの出口が見えた今、それはスピード違反への自動
警報装置の作動であり、すべては神さまの恵み、霊の運びであったと彼は語るのです。

順風満帆、すべてがぎらついていたあの時、あの場所への運びは、むしろ悪霊による
運びではなかったかと感じていると言います。今こそ霊の識別をすべきであり、自分の
ケースに限らずこれは現代社会が必要としている作業であることを、その壮絶な体験の中からくみ取られたようです。

日本で名の通った一流の心理療法専門家にも見切られた彼は、米国で毎日五、六時間
に及ぶカウンセリングを経て、一歳の時の幼児体験へとたどり着きました。そしてその
傷に向き合い続けること数年、その傷口から恵みの雨が染み込んでいくのを感じ始めて
いました。

それは、復活を目前に控えた聖週間でもあったのでしょう。「ブラームスの第一交響
曲第四楽章の復活の場面が、まさに自分の中で、今、奏でられている」と語るその顔は、
わずかに憂いを帯びて照明に映え、神々しくさえ感じられました。音の連なりにすぎな
いような曲が、こんなにもドラマを含んだものかと、あらためて感じ入った次第です。

人間関係の砂漠化が頻繁に語られるこのごろ、私たちもそれぞれの荒れ野へと
運ばれています。しかしそれは、またとない恵みの時かもしれないのです。

「灰の水曜日」の灰の荒れ野に洗礼の水が注がれて、四十日後、新たな命へと到達で
きますように。

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