日曜日のおはなし  3月1日

 

四旬節第2主日(マルコ9・2-10)
 ほれぼれ
     イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のど
     んなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に
     現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言
     った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
     ……」

ある会合で、「いのち、またの名を全体と言う」と発言したら、何のことか分からない
という一種のしらけムードが広がりました。「君こそわが命」と言うとき、それは君の
「一部」ではなく「全体」を、自分の全体でとらえたときの心境を表現しているのでは
ないかと申し上げたら、少しは納得していただくことができました。

このことを別の言葉で言えば、「ほれる」という言葉になります。ほれるとは、全体
による全体の理解、すなわち命の味わいのことなのです。

山登りが何より好きな人に「なぜ山に登るのですか」と尋ねると、「そこに山がある
から」と答えるのだそうです。これは理屈で考えると答えになってはいません。山の魅
力的な要素を何点か取り上げ、ゆえに山登りをするのだという、筋の通った論理が見受
けられないからです。

「山があるから」とは、「山にほれたのです」ということでしょう。「ほれ」は論理を
超えています。そして、論理から行動はめったに生まれませんが、「ほれ」は必ず行動
に結び付き、命を駆り立てます。

「あき空を はとが とぶ

それで よい

それで いいのだ」                 (八木重吉「鳩が飛ぶ」)

これもまた論理的に言えば、秋空に鳩が飛ぶことがなぜいいのか、筋の通った説明に
はなっていません。ほかの鳥が飛んでもいいし、秋空でなくてはならない理由もありま
せん。たぶん、秋の夕暮れのことだったのではないでしょうか。真っ赤な夕焼けの中を
鳩が一羽スッと飛んでいきました。そんな景色のただ中にあって、自分の全体が大自然の中
に包み込まれていくのを自分の全感覚でとらえ、圧倒されたのでしょう。

もう何ンにもいらない。大自然の懐に抱かれて、大安心の境地に至った時、あふれてきた
言葉だったのではないでしょうか。

ペトロも詩人の素養があれば、もう少しカッコイイ言葉を発したのでしょうが、目の
前のイエスさまの光景にほれ込んではみたものの、何やらわけの分からない言葉を吐い
てしまいました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と。ここまではまともですが、そのあとのセリフはもうメロメロです。

しかし彼は、論理の片隅でイエスさまをとらえたのではなく、この時、全身全霊でと
らえたのです。つまりイエスさまにほれ込んだのでした。

「イエスさまこそわが命」という、ペトロの中の、いわば復活をこの〝ご変容事件〟
に読み取ってみたいものです。ちまちまとした理屈に走るのではなく、確固たる行動へ
と命を駆り立てる修練もまた、復活祭への準備だと思うからです。

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