日曜日のおはなし  3月22日

四旬節第5主日(ヨハネ12・20-33)
 地に落ちて
     「……一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だ
     が、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、
     この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。……」
        

「地道」という言葉があります。大地の上に造られる道は、「道路」と呼ばれますので、
これはたぶん、大地の中に造られている道のことであるに違いありません。

地上に降り注ぐ雨は、この地道を通って地中深く染み込んでいくのでしょう。そして
大地は、時に何百年もこれをその懐におさめ、限りなく透明な清水へと仕上げ、地表に
わき出させます。そして地表の命を養います。

わき出る水も、養われる命も、一様に大地の味である地味を持っています。その味わ
いはたぶん、じっくりと地道に生きた地味な人にのみ許されるものでもありましょう。

地味とは、どんな味のことを言うのでしょうか。味と色について語るなかれということ
ばがあります。味は味わってもらう以外に分かってもらう手段はありません。色も見て
いただくしかありません。理論的に説明しても、それは文字どおり理論でしかありませ
ん。そのことを重々承知のうえで、あえて地味について言葉を弄してみたいと思います。

落ち葉が敷き詰められたような山道を歩くと、命がよみがえるような気持ちになりま
す。ふと足もとを見ると、ほぼ土と化した葉が木の根元を覆っています。

葉っぱは自分の出身にこだわることはありません。樫の木出身の葉は、樫の木以外の
木の肥やしにはならないなどと主張することはありません。等しく土となって、さまざ
まな命を養うのです。

人間が他を退けて一種類だけ栽培し始めた時から、土はやせ細り始めました。せっせ
と手入れをしなければならなくなりました。自然の森に手入れはいりません。もっとも、
酸性雨などで自然が自然でなくなっているので、そのための手入れは必要になってしま
いましたが……。

土の中にはさまざまな虫がいて、これまた土づくりに余念がありません。こうしてそ
れぞれが各分野を受け持ち、多様な命の世界をつくり上げていくのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの
実を結ぶ」。このことばはもちろんイエスさまの死の意味を説いたものではありますが、
同時にイエスさまに連なる者の死をも語っています。

種としての死、それが私たちの目指すべきものです。私は私として個人であり、個性
を持つ者です。しかし同時に全体を含む者です。それが種の正体です。種には葉っぱは
見えませんが、すでに葉っぱを含み持っています。

多くの実とは数の多さのみならず、多様な実でもあります。いろいろありながら、し
かもつながっているのです。

こんなことを目指す地味な生き方を身に付けたいものです。

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