日曜日のおはなし  3月29日

   受難の主日(枝の主日)(マルコ11・1-10)
 いのちの調味料
     二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の
     服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服
     を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て
     道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
     「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
     祝福があるように……」   

私はまだ本当の産みの苦しみを知りません。しかし、ほんの少しですが見当はつきま
す。同様に、死の苦しみもまだ知りません。でも、少しだけ推し測ることはできます。

というのは、こうして性懲りもなく文をつづることを続けていますと、これはまさに
産みの苦しみだと感じることがしばしばあるからです。七転八倒してもまだアイデアが
浮かばない。ストレスのあまり腹が臨月のようにパンパンになって、ようやく一つの考
えに到達するということの繰り返しです。

それならいっそ、やめてしまえば楽になるのにと考えます。そうすれば読者も変な考
えに悩まされることもなくなり、日本はもっと平和になるのに。それなのに、どうして
性懲りもなく続けるのかというと、どうしようもなく楽しいからです。苦しいと言ったり楽しいと言ったり、何が何だか分からなくなりますが、これがすなわち産みの苦しみの正体なのだということを言いたいわけです。

苦しいけれど楽しい。これが、命の持つ深い味だと思います。少なくとも実際にこの世
に命を生み出した経験をお持ちの方は同意していただけると思います。あるいはこの世
界を命に満ちたものにしようとして、苦しみをいとわない方々は分かってくださると思
います。

産みの苦しみがあるように、死の苦しみがあります。というより、死の苦しみも産み
の苦しみです。そしてその苦しみが命の誕生につながっている限り、それは真の意味で
楽しみです。ですから産みの苦しみも、死の苦しみも、命をじっくりと味わうためのこ
の上ない上質の〝調味料〟ということになります。

きょうは、イエスさまの堂々たるエルサレムへの入城を記念します。周囲を数キロの
城壁で囲まれたエルサレムは、いわば神さまのいのちをこの世界に向かって産み出す
〝分娩室〟です。

いよいよその〝分娩室〟にイエスさまが入城なさいます。多くの人々も連れ立って行
きました。しかしそれは、命というより死への行進であったようです。

このように、さまざまな死と命が複雑に交錯する行進は今も変わりありません。つい
15年前、全世界はいのちの世紀である二十一世紀へと入城したはずでした。しかしそれ
は、ますます死の行進の様相を帯びてきています。ことしもイエスさまと共にエルサレ
ム入城を試みてみましょう。もしそこで産みの苦しみと死の苦しみをいのちの〝調味料〟
としてとらえることができるなら、きっと一週間後、復活のいのちを味わうことができ
るでしょう。

This entry was posted in 未分類. Bookmark the permalink.

Comments are closed.