日曜日のおはなし  4月5日

落ちこぼれても
     婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そ
     して、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
     
聖書講座のようになって恐縮ですが、同じ復活の場面でも福音記者によって記述の仕
方が違っています。

女性たちが墓に行ったこと、墓の入り口の大きな石が取りのけられていたことなどは
同じですが、メッセージやそれに対する反応の仕方が違っています。マルコによる福音
書では、特に復活のメッセージを聞いた女性たちの反応に特徴があります。

ほかの福音書によれば、女性たちはいずれも、恐れを抱いたにもかかわらず、弟子た
ちの所に知らせに行ったと書かれているのに、マルコによれば知らせに行っていないの
です。

「さあ、行って弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。『イエスはあなたがたよ
り先にガリラヤに行かれます。かねて言っておられたとおり、そこで、あなたがたはイ
エスに会えるでしょう』と」「婦人たちは墓を出て逃げ去った。われを失うほど恐れお
ののいていたからである。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからであ
る。」(16・7-8フランシスコ会聖書研究所訳)

例えば、マタイ福音書にはこう書かれています。「婦人たちは、恐れながらも大いに
喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(28・8)と。

どちらが本当なのでしょうか。復活の知らせから教会は事実上始まったのであり、弟
子たちはその知らせによって初めて動き始めたわけですから、知らせがなかったはずは
ないのです。本当かそうでないかというレベルで言えば、マルコの記述は本当でないと
いうことになりましょう。

しかしここにそんなレベルでないもの、つまりマルコ福音記者がどのような心で復活
の福音を受け取ったのかということが表れていると思います。

ご存知のように、マルコの福音書には所々に福音に対する弟子たちの無理解を強調す
る場面があります。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになってい
るのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(8・17-18)
などです。

この背景には、マルコ自身の〝落ちこぼれ体験〟がかなり反映されているのではない
かと思われます。彼はパウロと共に宣教に出かけるのですが、挫折してしまいます。そ
の後、同じように失敗を重ねたペトロのもとで働くことになります。

その彼が福音書をしたためた時、そんな弱い自分にも神さまの恵みは注がれており、
福音は人の弱さや醜さを突き抜けて、人間のもとに到達していることを示そうとしたの
だと思います。そしてその自分が、栄光の福音書を書いたというささやかな誇りも。

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