日曜日のおはなし  4月12日

 

復活節第2主日(ヨハネ20・19-31)
 傷口
     「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなた
     の手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく、
     信じる者になりなさい。」
        

楽園のアダムと同じように、トマスもまた「知恵の木」(創世記2・9参照)の実を
食べ、「命の木」(同)に到達できなかったようです。「知恵の木」と「命の木」が中央
にそろって、初めて楽園が成立します。

イエスさまの尊い傷をくぎの跡などとしてとらえ、自分が信じるための証拠物件にし
ようというのですから、的外れもいいところです。

「分ける」とか「分かる」という言葉があるように、知恵の得意技は分断して見極め
ることです。花びらを一ミリの数億分の一まで分けていき、その構造を見極めて、花の
ことが分かったなどと言います。そこまではいいのですが、そこに潜むいのちの神秘は
少しもとらえてはいないということがあります。まさに「知恵の木」と「命の木」の分
断です。こうして人間は今も楽園を喪失します。

翻って、いのちの営みは全体と全体の向かい合いです。誕生は人間のすべてに及び、
死もまた全体の営みです。時々、〝口の悪い人〟のことを言うとき、彼は墓に入っても
口だけは生き残るのではないか、などとうわさしますが、現実には起こりえないことで
す。

イエスさまの傷は、くぎの跡などという証拠物件ではありません。たまたま負ってし
まった単なる傷でもありません。すべての人間が背負っている傷への傷口なのです。そ
の傷はいのちへの入り口と出口を持ったものなのです。だから傷口であり傷への出入り口です。

大地は渇くとひび割れて傷口を広げます。それはいのちを養う恵みの雨を存分に吸収
するためです。この傷口についての知恵によるせんさくは無用です。トマスの中で、イ
エスさまを信じるための証拠物件であったくぎ跡が、次第に人間の傷口へと変容してい
ったというのがきょうの聖書のメッセージなのではないでしょうか。

くぎ跡がここにもある。あそこにもある。いやこれはかすり傷だなどという確認作業
は、トマスにはもはや無用です。頭の先の一部分の作業ではなく、トマスという人間の
ひざからの崩れ、すなわち全体でいのちへと向かい合う瞬間が訪れたのです。

「わが主、わが神よ」という信仰宣言は、こうして生まれたものと思われます。くぎ
跡ではなく、傷口を通って、トマスもまた墓に入り、墓から出てきたのです。トマスと
いう人間の楽園回復であり、復活そのもです。

信仰とは真理の確認作業のことではなく、いのちの営みのことです。自分の全体の明
け渡しであり、まさに死からいのちへの復活です。

生命科学などという人間の「知恵の木」登りが、「命の木」登りとつながることを願
いたいものです。楽園喪失にならないために。

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