日曜日のおはなし  4月19日

 復活節第3主日(ルカ24・35-48)
 食べ物は
     彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエス
     は、「ここに何か食べ物はあるか」と言われた。そこで、焼いた魚を
     一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
      

骨身を惜しまず働くためには、まず自分の中に骨身をつくらなければなりません。自
分の中に取り入れるものが、血となり肉となり骨となる必要があります。

私たちは日曜日のミサの中で説教を聞きます。日本の教会の日曜日の説教は、格調高
いことで知られています。ところが聞く方が右の耳から左の耳へ素通りしてしまって、
ちっとも身に付かないし骨にもならないということが時々起こります。繰り返しますが、
説教そのものは格調高いものなのです。

その原因はただ一つ。説教を頭でとらえ、頭で考えているからです。分かったか分か
らなかったかのレベルでとらえているからです。物が身に付き、骨となるためには、そ
の物について考えるだけでは到底かないません。その物を食べて味わう以外にはありま
せん。

キリストを身に付け、骨とすることがキリスト教を学ぶことです。ですから頭で勉強
するだけでは足りません。キリストを食べる必要があります。

きょうの聖書の中で、復活されたイエスさまは、しきりに食べ物はないかと催促され
ています。そして「骨も身もある自分をよく見よ」と言われます。

弟子たちはまだ、復活のイエスさまを幽霊のレベルでしかとらえていなかったのでし
ょう。だから復活がちゃんと身に付いていなかったのです。

食べ物という言葉は「賜り物」から来ていると言われます。食べ物は、賜り物なので
す。実際に口にする物は、それぞれのいのちを持ったものです。そのいのちを拝領する
ことが食べること、すなわち賜ることなのです。

いのちを賜って、そのいのちを自分自身が生きていこうという決意が整ったとき、
「いただきます」という食前の祈りの言葉が出てきます。

事実、食された物は自分の体内に入り、消化され、血となり肉となり骨となります。
こうして骨身を惜しまず働く人間が出来上がります。

理屈のキリストもこの世にはある程度必要です。ただ、それだけでは身にも骨にもな
りません。きょうの福音のイエスさまは、ご自分が実際に食べて見せることによって、
頭で学ぶだけの幽霊の段階の「キリスト理解」を、一歩抜け出すよう勧めておられるよ
うです。

やがて弟子たちは最後の晩餐を思い出し、その記念を定着させていくことになります。
それは取りも直さず、現実の場でイエスさまを自分たちの身に着けたいからにほかな
りません。

こうして彼らはイエスさまを自分たちの骨身とし、この世界の人々のために骨身を惜
しまず働く者となっていくのです。

ちなみに説教も分かるものではなく、身に付けるものなのです。

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