日曜日のおはなし  2月8日

年間第5主日(マルコ1・29-39)

 教会の境界

      人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来
     た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかか
     っている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪
     霊にものを言うことをお許しにならなかった。
       
「現代の人々は希望に支えられてはいますが、同時にしばしば恐怖や苦悶に悩まされ
ています。こうした人々に福音を宣べ伝える努力は、ただ単にキリスト共同体だけでは
なく、人類全体に課せられた責務であります。」

少々難しい話になりますが、これは、第二バチカン公会議閉幕十周年を記念して出された、教皇パウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」の冒頭の言葉です。教会の宣教観の基本的変化を表した言葉として、内外に衝撃と感動を持って受け取られたものでもあります。

キリスト者のみならず、すべての人が宣教の義務を負うというのです。ということは、
裏を返せば、すべての人が本物の福音に触れる権利を有するということでもあります。

このすべての人に与えられている基本的人権ともいうべき「福音に触れる権利」を侵
害してはならない。これが、私たちが宣教に励まなければならない動機です。

きょうの福音は、カファルナウムの一日を記した個所です。シモン・ペトロの家はお
そらく教会そのものを表しているのでしょう。その教会の中にも現代と同様、病があり
ます。そしてイエスは、その教会内の病をいやしてくださいます。

しかしそれだけではありません。この家の戸口には、多くの病を得た人々が集まって
きています。イエスは教会内外の病をいやされるのです。

そして、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」と言われ、
シモン・ペトロたちは「みんなが捜しています」と言いながら、〝後追い宣教〟に励む
のです。

こんなイエス・キリストの宣教観にようやく気づいたのでしょう。使徒的勧告の冒頭
の言葉には、「われのみ一人、真理を有する。外はやみの世界である」と決めつけてい
た、かつての絶対的態度とは一八〇度の転換がうかがわれます。教会の内にも外にも病
はあります。そのことを率直に認め、内外の善意の方々とともどもに連れ立って、内外
の福音的いやしを目指す必要があります。このことを今では「福音化」という言葉で表
していることは、ご存じのとおりです。

カファルナウムのシモン・ペトロの家と同じように、現代の教会にも外と内を区別す
る境界線はあります。しかしそれは隔ての壁ではなく、教会も世界と同様に病を抱え、
希望とともに恐怖や苦悶に悩まされている外の世界を目の当たりに描き出す場でもあり
ます。

健全な部分も病の部分もドロドロに入り混じった中で、イエスのいやしを信じて
進む共同体、これが教会の姿です。同じ病を抱えているがゆえに、教会はそこに働くイ
エスをあかしする力を持ち得るのではないでしょうか。

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日曜日のおはなし  2月1日

年間第4主日 (マルコ1・2128)

 聖域

 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。

  最近のカトリック教会はあまり地獄とか悪魔について言及しなくなっています。では地獄も悪魔もなくなったのかというと、そうとも限りません。

かつてのオカルトチックな地獄や悪魔では現代人には通用しなくなったということです。燃える釜戸や角の生えた悪魔など可愛いもので、ちっとも怖くはありません。

ほんものの悪魔は優等生の看板を掲げ、神さまの顔で現れ出ます。ですからそれが悪魔だと見破れる者はほとんどいないと言ってもいいくらいです。

悪魔の正体を見破れるかどうか、その実力を試すのに実にいい問題が上に掲げた聖書のことばです。

イエス・キリストの真実のすがた、すなわち正体は分かっている。それは神の聖者だと言い当てているのです。弟子たちでさえ見破れなかったキリストの正体を悪霊が見破っていたのです。しかも的確な答えなのですから、言うことなし、優等生の答えと言うべきでしょう。

では悪魔の悪魔たるゆえんはどこにあるのでしょうか。そしてほんものの優等生とどこが違うのでしょうか。そこを識別できたら悪魔見破りテスト合格となります。

「かまわないでくれ」という悪霊のセリフは関わりを拒絶することばです。あなたは聖なる者、すなわち神さまだ。あなたすばらしい。ただし自分の分野に入り込まないでくれ。つまり神さまを巧妙に褒め殺しにし、聖域に閉じ込めて関わりのない者とする。

その隙に逆に自分の聖域を作り囲い込み、勝手に世界を自分の物として支配しようという魂胆が隠されているのです。

これを見破るのはそう簡単なことではありません。なぜなら、私たち自身が油断をするとこんな行動を取ってしまうからです。そして、決して口に出さず意識もしないうちについつい自分の聖域を作ってしまうからです。

さすがにイエスさまは悪魔の魂胆を即座に見破りました。「黙れ、この人から出て行け」と。

この悪魔の正体見破りテストへの、あなたの結果は如何に。健闘を祈ります。

 

 

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日曜日のおはなし  1月25日

  年間第三主日(マルコ1・14-20)

 頭を取れ
     イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモ
     ンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁
     師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師に
     しよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

古い話で恐縮ですが、 もう10年以上も前のことになりましょうか。テレビ画面の中の恰幅のいい男が「頭を取れ」と言うのを聞いて、びっくりした記憶があります。

これは何も、ギロチン(断頭台)にかけて人間の頭を切り落とせというのではなく、
「何のかのと理屈をこね回してばかりいるから人間は不幸になる。あれこれ考えること
をやめて、私の言うことを信じなさい」ということのようでした。つまり人を思考停止
に追い込み、マインドコントロールしようというわけです。

事実、「最高ですか」という呼びかけに、みんな何の考えもなく「最高です」という
答えを繰り返し、法外なお布施を夢心地の中で申し出てしまうのです。みごとに頭を取
られてしまったのでした。このお方は間もなく、かき集めたむなしい富をつかの間だけ楽しんで、
頭も含めて身柄全体が警察に取られてしまいました。

こんな事件が性懲りもなく繰り返されるたびに、一種の感動にも似た不思議な思いに
駆られてしまいます。「どうして人間は、こんなたわいもないことに引っ掛かってしま
うのか」と。

それはたぶん、人間にはその構造に基づくそういう素質が備わっているからではないかと思います。豚はどんなにおだてられても、構造が違うので基本的に木に登ることはできませんが、
人間は木どころか、天国にまで昇ることのできる構造を備えているようです。

そして、そのために自分の頭を取ってしまって、身をゆだねてしまうことができるの
です。そういう素質を見抜いた悪賢い人が、天国のイミテーション(偽もの)をつくって
人々を誘うと、もともと素質が備わっているので、一も二もなく引っ掛かってしまうも
のらしい。

特に現代の風潮である「楽して何かを手に入れる」ことができれば、それはさらに魅
力的となります。この種の招きすなわち〝召し出し〟は、人間にその素質がある以上、残念ながら繰り返されるでしょうし、その偽りの召し出しに応える人も絶えることはないでしょう。

弟子たちもまたイエスさまの召し出しの声を聞きました。そしてすべてを捨てて、み
声に従いました。イエスさまの魅力のとりことなって、一も二もなく〝引っ掛かって〟
しまい、「最高だ」と思ったに違いありません。ここまではあの〝「最高」教〟の頭取り
と同じです。だから、この召し出しの手法は大いに見習うべきところもあるのです。た
だし、そこから先がまったく異なります。

イエスさまの召し出しの奥には、十字架という本物の「最高」が用意されているから
です。それは頭のみならず、身も心も神さまと人々への奉仕にゆだねるという「最高」
の至福です。私腹ではなく至福>への誘いの声を聞き分ける素質も、私たち人間はすでに持っ
ています。

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日曜日のおはなし  1月18日

 

年間第二主日(ヨハネ1・35-42)

 どこに
     その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いて
     おられるイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言った。二人の
     弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが
     従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
     

洞山という名の雲水が、道を求めてある寺を訪ねました。玄関先で雲門禅師との間に
こんな会話が交わされました。

「お前さん何處から來たかな。」「査渡から參りました。」

「ほう。それで夏は何處で過したな。」「湖南の報慈寺で過しました。」

「ほうさようか。して報慈寺は何時發つたかな。」「はい、たしか八月二十五日でございました。」

「お前を六十棒程、ぶち撲ってやりたいところだが、わしも年をとってなあ、しんどいか
ら今日は堪忍しておこう。」

これは、中国が南宋と言われていたころの禅の逸話集『無門関』に載っている一つの
話を、山田無文老師がやさしく言い換えてくださったものです。(山田無文・高橋新吉
『無門関』新装版、法藏館、一九九九年)

聞かれたので正直に答えてみたら、棒で六十回も殴ってやりたいところだ、といきな
り言われて追い出されてしまいました。雲水には何が何だか分かりません。その夜、彼
はまんじりともせず考えてみるのですが、いっこうに思いつきません。夜が明けるとす
ぐまたその寺へ、とって返しました。

そこでどうして殴られなければならないのか、さっぱり分からないと言うと、今度は
手ひどく罵倒されてしまいます。「ああ! この穀つぶしの役立たず奴が! お前はそ
んな上のそらであちらの僧堂、こちらの叢林とうろつき廻っておったのか」と。

そこで彼は、はっと気がついたというわけです。さて、彼は何に気がついたのでしょ
うか。

どこから来てどこへ、という大地の上の移動などどうでもよい。人はいったいどこか
らどこへ向かっているのかという人生の行程に気がついているのか、という痛切な問いかけが迫ってきたのかもしれません。あるいは道を極めつつある老師の気迫に打たれたのかもしれません。
とにかく彼はこの時、一八〇度の転回をしたというのです。

二人の弟子のイエスさまとの出会いもまた、「どこに」をめぐって展開されたよ
うです。

「何を求めているのか」 「ラビ―『先生』という意味―どこに泊っておられるのですか」

「来なさい。そうすれば分かる」

この一連の問答にも、単なる大地の表面の「どこに」を超えた気配がうかがえます。
現実には、地表の一点にあるあばら家に案内されたに違いないのですが、それこそ上の
空のあっちこっちではなく、魂の故郷ともいうべき人間本来の住み家を感じ取ったので
はないでしょうか。

午後四時ごろの出来事として鮮明に記憶していたこの時の体験は、弟子たちの長い巡
礼の始まりでもあったのです。

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日曜日のおはなし  1月11日

 

主の洗礼(マルコ1・7-11)

 洗 礼
      そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネ
      から洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて〝霊〟
      が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あ
      なたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から
      聞こえた。

「創世記」は、世界誕生の最初の様子を次のように記しています。「地は混沌であって、
闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1・2)と。

まだ目も見えず、やみと混沌の中にある生まれたての赤ちゃんのように、世界は神さ
まの〝産湯〟と、命を産み落とした者の息吹に包まれて、光の世界へと導かれていくの
です。

それからどれほどの時が経過したのでしょうか。今また救いの歴史の節目に、新たな
〝産湯〟が用意されることになります。それがきょうの福音の、イエスさまの洗礼の場
面です。

イエスさまはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け
られました。水から上がるとすぐ、「天が裂けて〝霊〟が鳩のように御自分に降って来
るのを」ご覧になりました。水と霊による誕生は天地創造の場面と同様であり、イエス
さまの受洗によって、世界はまた新たに創造されたとも言えましょう。

創造された世界は、神さまのスキンシップの言葉ともいうべき「良しとされた」とい
うことばを何回も聞くことになります。受洗されたイエスさまも、同様の言葉を聞くことに
なります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

現代流に訳せば、世界もイエスさまも父である神さまにとっては、目の中に入れても
痛くないということになりましょうか。神さまの〝産湯〟と〝愛のプロポーズ〟、これ
を別名「洗礼」と言います。

世界と人間の創造、すなわち存在そのものの奥に届けられた、神さまの〝産湯〟への
誘いと熱烈なる〝プロポーズ〟から離れると、洗礼は単なる〝水掛け論〟に終わってし
まいます。

「『幼児洗礼』は良くない。信仰の自由に反する」、「もっと自分で判断する能力を持つ
ようになってからでも良い」、「異宗間結婚の際に、まだ生まれてもいない子どもの洗礼
まで結婚の条件にするとは何事か」など。

論としてはみごとなものですが、残念ながら、それは〝水掛け論〟にすぎません。最
近の洗礼が水にどっぷり浸すというより、ちょろちょろと額にかけるだけという形にな
ったせいか、〝水掛け論〟の洗礼が多くなったように思われてなりません。

人すべて、まず赤ちゃんの身になってみる必要があります。事実そうなのだからです。
そうすれば、産湯にも両親のスキンシップにもあずかりたくない者は、この世に一人も
いないことが、たちどころに分かってきます。

自分の存在の親に出会えないこと、これが人類共通の不幸です。そういうわけで、す
べての人は渇くように洗礼を望んでいます。とは言うものの、現実の前には、これもま
た水掛け論なのでしょうか。

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日曜日のおはなし 1月4日

主の公現(マタイ2・1-12)

 子どもがえり
     ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確
     かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかった
     ら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り
     出した。……ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げが
     あったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

私たちはよく、「人間は最後には子どもに返っていく」などといいます。「あの頑固
だったおじいさんが、最後はほんとうに素直になってねぇ」などと……。

子どもになるというのは、若返って本当に子どもになるというより、素直になる、無
邪気になる、要するに大人としてのいやらしさが取り除かれた状態を言うようです。

子どもと大人の違いとは、いったい何なのでしょうか。純粋無垢で、何も持たずに出
発した私たちの人生行路でも、いつの間にか船体にさまざまなものがくっついて、航海
を鈍らせてしまいます。だから時々、船体を削ってこれを落とす必要があるのです。

そのさまざまなものとは、お金、地位、肩書、その他いろいろなしがらみなど、途中
からくっついてきたものを言います。しかし、そういうものがくっつくことは、必ずし
も航海を鈍らせるものではないのです。

問題は、それらが人生の方向を指し示す星を見失わせてしまうところにあります。

立派な地位に就くことは、すがらしいことです。しかしそのことが、その人を囲い込
んでしまい、ほかの人々の痛みや悲しみへの共感を削ぎ落としてしまうとすれば、その
地位が人間の方向を見失わせつつあると言わざるを得ません。

金を豊かに持つことも、すばらしいことです。しかしそのことが、その人を囲い込ん
でしまうとすれば、これも問題です。

きょうの福音に登場する占星術の学者たちは、自分たちの行く手を指し示す星を大事
にしました。そして、示される方向を大事にしました。そして、だれもが向かう方向で
ある権力者の所に立ち寄りました。地位と富と権力の世界です。繰り返しますが、その
こと自体は決して悪い方向ではないのです。

しかし、彼らはそこで一時的とは言え、星を見失うのです。彼らが再び星を見つける
のは権力者の家を出て、新たな出発を試みた時です。やっぱりそこには、人間の行くべ
き方向を見失わせるものがあったのでしょう。何らかの囲い込みがあったに違いありま
せん。

星は一つのあばら家の上に止まりました。そこは幼子の宿る場所でした。そこに「あ
る」という以外何もない場所でした。しかしそこは、学者たちの子ども返りの場であり、
原点への返りでもあったようです。

何歳ぐらいになっていたのでしょうか。彼らには、これまでたどったのとは別の道が
示されるのです。「ヘロデのところへ帰るな」と。

生き直しの利かない人生ですが、せめてやり直しを試みたいものです。みごと、別の
道をたどる勇気を持ち得た学者たちと共に。

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日曜日のおはなし  12月28日

聖家族(ルカ2・22-40または同22、39-40)

 命の共同組合
      シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
      「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
      この僕を安らかに去らせてくださいます。
      わたしはこの目であなたの救いを見たからです。……」
こと、命に関する限り、幼子と老人は同じ〝組合〟に属しているように思います。幼
子は出来たての命にどっぷりですし、老人はもう後がないという意味で、本気で命にか
かわらないわけにはいきません。

それに引き換え、青年、中年は、命に関しては〝アルバイト〟です。ついでの時にか
かわる程度で済まそうとします。もっとも現代では、そのことがあだとなり、命を放棄
する者が続出しているようにも見えますが……。

生まれて間もなくイエスさまが老人たちと出会ったというのも、この〝共同組合〟の
縁が取り持ったものでありましょうか。青年であった両親をそっちのけにして、互いに意
気投合しているように見えます。

幼子は命の初め、魚にたとえれば、頭です。老人は命の成熟期、魚で言えば、〝しっ
ぽ〟です。現代人は魚の頭も〝しっぽ〟も除いてしまい、さらに骨も取り除いて身だけ
を味わい、魚を食べたなどと言っています。

しかしそれは魚を食べたのではなく、魚のほんの一部を食べたにすぎないのです。魚
とは〝しっぽ〟や頭を含めた全体のことなのですから。

現代人の命の味わい方は、魚の食べ方によく似ています。骨も〝しっぽ〟も頭も除い
て身だけを味わうように、命の誕生も死も、そしてこの両者をつなぐ背骨としての宗教
も無視して、今の瞬間の味わいのみを生きようとしているように見えます。これでは魚
と同様、命の本当の味が分かるはずがありません。

中絶などによって、命の「頭」への不当介入がなされつつあります。また、安楽死な
どの名のもとに、命の「しっぽ」の味わいを拒絶している場合があります。

いずれも、命とは全体であることを忘れてしまったところからくる迷いです。飛行機
だって〝しっぽ〟を無くしたら方向を定めることができず、迷飛行するしかありません。
頭はもちろん全体のコントロールのために不可欠です。

しかも、頭としっぽはつながっていないと役に立ちません。背骨という宗教が人間に
必要とされるゆえんです。

そういう命の完結を求めて、幼子イエスさまとシメオン老人、預言者アンナが出会い
ました。そして老人たちはみごと、自分たちの命の完結を果たすことができたようです。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わ
たしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

聖家族は核家族でした。しかしそれは、それぞれの人格を排除してこもる家族ではな
く、世代を超えた人格の交わる、命の全体が輝く家族でした。

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クリスマスのおはなし 12月24日

 

主の降誕(ルカ2・1-14)

  ほほ笑み
      天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘ
      ムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
      と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶
      に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
      

生まれ出て初めてわが子がほほ笑みを見せた日を、親、特に母親は生涯忘れることは
ないでしょう。大きくなって、たとえその子が憎まれ口をたたくようになったとしても、
親の思いはその記念すべき日に返っていくに違いありません。

幼子のほほ笑みに理屈などいりません。ただただ見ほれて味わえばよいのです。

ただ、きょうはクリスマスですし、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言
われておりますので、少しばかり理屈も添えて、これを味わってみたいと思います。

と言いますのも、私たちは歳を重ね、いつしかあのころのほほ笑みをどこかへ置き忘
れてしまい、これを取り戻すすべさえ思い出せないでいるのかもしれないからです。

イエスさまがお生まれになった場所は、動物たちが夜露をしのぐための洞穴だったと
言われています。実際にこの時、動物たちがいたのかどうかは分かりません。だから、
動物たちがほほ笑みをもってイエスさまの誕生を迎えたかどうかも分かりません。たぶ
ん、人間が考えるようなほほ笑みを彼らはもたないのでしょう。ペットの犬も喜びのし
ぐさと思われる動作はしますが、顔の表情はあまり変らないようです。

しかし、無数にいる動物の種類、その一つとして同じものはいない姿を眺めていると、
その存在そのものがほほ笑ましいものばかりです。存在そのものがほほ笑みなので、そ
のうえほほ笑む必要はないのでしょう。

そうなのです。存在そのもの、そこにあること、そのことがほほ笑みであり喜びなの
です。少なくとも、赤ちゃんのほほ笑みはそうでした。

何かを持っているから笑ったのではありません。その証拠に百万円の札束を赤ちゃん
に与えても、ちっともうれしがらないでしょう。何かができたからうれしかったのでも
ありません。「ママ」が女子マラソンで優勝することより、ただ自分のそばにいてくれ
ることのほうが、よりうれしいのです。

人はいつしか歳を重ね、時には借金も重ね、会社は倒産し、金を持たないことや何も
できないことのために、本来のほほ笑みを忘れてしまいます。しかし人間は、そんなこ
とで喜びがなくなるほど粗末につくられてはいないのです。

クリスマスの洞穴には、人間の存在のほほ笑みがありました。無表情の動物たちも、
その存在でほほ笑んでいました。人間の本来はこんな姿なのだということ、たとえ歳を
経てもそんな姿をとどめ続けることができるのだということを、身をもって示していた
のです。

こよい、クリスマスケーキを食べる子どもたちが、食べる喜びと同時に、あの幼子の
ように、この世にあることそのものを喜び続けることができますように。

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日曜日のおはなし  12月21日

 

待降節第四主日(ルカ1・26-38)

  子  宮
      「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますよう
      に。」
ご存じのように、ルカ福音書には二つのお告げ物語と二つの誕生物語が、対比する
かのように描かれています。祭司ザカリアときょう登場のマリアさまへのお告げであり、
誕生の話は洗礼者ヨハネとイエスさまについてのものです。

二つのお告げの話は同じような形式で語られていますが、結果はまるで違ったものに
なっています。お告げを受けて、どちらもその内容の唐突さに疑問を挟んでいるのです
が、ザカリアは口が利けなくなり、マリアさまはいのちを宿す者となります。これは、
旧約の〝制度疲労〟を起こした宗教のシンボルとしての神殿と、マリアさまという新し
い時代の神を宿す宮殿を対比させて描こうという、福音記者の意図がおそらく含まれて
いるのでしょう。

ほかに、いのちを宿しえなくなった男社会の限界をも含ませているのかもしれません。
いずれにせよ、救いの歴史が新しい段階に来たことを物語っています。

この世でいのちを宿す場所のことを子宮と言います。子を宿す宮殿のことです。厳密
には女性のみが子宮を持っていますが、神聖なるいのちを宿す場という広い意味でとれば、
すべての人が子宮を持つということができるでしょう。

かつて世界創造の時、神の息吹である霊が大地の混沌を覆い、「光あれ」というお告
げを受けて、世界はいのちに満たされていきました。そしてきょう、また、マリアさま
という一人の女性を神の霊が覆い、神の子を宿す宮殿を世界は準備することができたの
です。

そのことのひそかなお告げがなされたことを、福音記者は記しているのです。こうし
て世界は、着実にいのちへのまなざしを整える時代に入ったのです。

「光があるように」と言われた神の第一声は、それなりに世界の答えを引き出したの
でしょう。しかし、きちんとした人格を持つ者として「お言葉どおり、この身に成りま
すように」という答えを返したのは、人類史上、マリアさまが初めてです。

世界は創造されて神のいのちを宿すものとなったのですが、今またいのちのレベルで
人格的に応答する者を世界は確保したのです。世界という子宮は、さらに明確な人間の
子宮という神のいのちの宮殿を得たのです。

今、地球の表面ではいのちの抹殺が続いています。「光あれ」という神のことばとは
似て非なる、人間が作り出した爆発する武器の光がぎらついています。

やみは深い、という気もしてきます。しかしそのやみは、夜明け前のやみかもしれな
いのです。少なくともキリスト者はそう信じて、ささやかなともし火をかざす必要があ
ります。

「なりますように」という、世界の全歴史を集約したマリアさまの応答が、すでになされた

のですから。

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日曜日のおはなし 12月14日

 待降節第三主日(ヨハネ1・6-8、19-28)

  だから

       「それではいったい、だれなのですか。……あなたは自分を何だと言う
            のですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
       「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
       『主の道をまっすぐにせよ』と。」

「だから、私はやるんですよ」
ある会合で、この「だから」という接続詞が深い意味をもって響き渡りました。それ
は、教会が社会問題にどの程度かかわらねばならないか、という重いテーマについての
議論の場でのことでした。

参加者は、それぞれ自分の体験から熱意あふれる意見を披露し合いました。社会問題
は複雑だから、せいぜい困っている人に心を込めて物的援助を提供するぐらいで止めて
おくべきである。つまり、福祉のレベルでよいのではないか。いや、福祉を必要とする
人々に援助の手を差し伸べることも大切だが、そういうことをする必要のない社会をつ
くるための活動こそ大事である。深入りすると思想信条が必ず絡んでくるので嫌になる。
ある問題で必死になって支援活動をしていたら、その支援活動を食い物にされ、何のた
めに頑張ったのか考えるとむなしくなる。

こんな意見が次々と出され、今後の取り組みにあまり希望の光が見えなくなりそうな
その時でした。冒頭の「だから」が力強く宣言されたのです。

「だから、私はやるんですよ」。これは本物の預言者の言葉だと感じました。たとえ自
分の活動の場が荒れ野でも、自分は純粋な声となって叫び、かつ活動し続けるのだとい
う、すさまじいものを含んだ言葉でした。しかも、何の気負いもないところに、またい
っそう迫力があります。

荒れ野とは、すべての声と行動を飲み込んでしまう場所のことです。それだけに、一
切の不純物を取りのけてくれる場でもあります。ここでは、一切の打算も計算も通用し
ません。ひたすらに声そのものになりきること、行動そのものになりきることが要求さ
れます。

乾ききった場所ではありますが、古来、荒れ野は神さまとの出会いの場でもありまし
た。神さまに頼る以外にないこともありますが、一切の付随物が削り取られて、神さま
をとらえる感受性が研ぎ澄まされていくのでしょう。

洗礼者ヨハネもまた荒れ野で鍛えられ、来るべき救い主の姿をとらえることが許され
た一人でした。だから単なる声として、自分を荒れ野のような当時の社会にさらすこと
ができたのです。

現代の荒れ野にも、〝ヨハネ系列〟の預言者があちこちにいます。たとえ自分がすべ
てを投げうって支援した人が、それにふさわしい人格の持ち主でなくとも、先頭に立つ
人々の中に変な打算や計算が見え隠れしても、「だから」、自分はこれに打ち込むのだと
言える人々です。

「だから」と言いつつ、何の気負いもなく自然に振る舞う、その自然さが救い主を先
導するのではないでしょうか。

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