神は人を偉大なものとし、万物をつかどらせる

カトリック上神崎教会



わたしたちの故郷の歴史についてもう少し詳しく紹介します。少々長いですので、暇の時に
でも目を通していただければ幸いです。

わたしたちの故郷・上神崎

(1)上神崎

上神崎は、平戸市の北端に位置し、白岳山麓から西に突き出た長さおよそ4キロほどの半島で、南側に薄香湾、北側に田ノ浦瀬戸という位置にある。
この一帯は、かつて松浦藩の領地であり、戦争馬200頭余りを、常時放し飼いしていた場所と伝えられている。
西暦1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の大政奉還により、幕府による政治は瓦解、王政復古に伴い、新政権が誕生した。その結果、松浦藩も闘いの心配がなくなり、西暦1870年(明治3年)に放馬廃止になる。

(2)黒島

黒島は、西海国立公園九十九島の中にある最大の島で、その昔は平戸松浦藩の領地で、島の中央部は放馬場で、海賊の根拠地にもなっていた。
黒島キリシタンの大半は、大村に住み、一部は外海にも在住していた。当時の領主である松浦鎮信(しげのぶ)の迫害で、平戸のキリシタンの多くは大村に逃れたが、逃れた先の大村でも迫害が起こり、黒島に移った。
黒島での生活は苦しかったが、大村より迫害の手が厳しくなかったためといわれている。

(3)新天地を求めて

西暦1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札が撤廃された。
禁教令はとけたが、黒島は増え続ける人口問題で生活は苦しく、将来展望を見出せない状況であった。公的な迫害はなくなったが、彼らの心の傷は深く、何とかしなければと思い悩みつつも誰一人島を離れようとはしなかった。
そんな中、岩田、梅田、長田氏などが度々集まって話し合しあい、数箇所の候補地名は上がったが決定には至らず、3年、4年と歳月は流れていった。
そして、西暦1879年(明治12年)ふとしたことら、平戸島に「神崎」という所があることを聞き及び、調べてみると、その場所は、旧平戸松浦藩の領地であり、この黒島も同じであるので移住すれば土地は借用できるという話を聞いた。
西暦1880年(明治13年)数回の話し合いの末、梅雨明けを待って、第一陣6世帯が、新天地を求めて旅立つこととなった。
一行は、梅雨明けの南風を利用して、一路「神崎」へと舟足を進め、館の瀬戸を押しのぼり、泊の浦(現在の田ノ浦温泉海岸)に小舟を乗りつけたと言われている。

(4)赤崎山

ここは黒島から移住してきた6家族が生活を始めた所で、カヤブキの長屋を2軒建て、共同生活のような状況から出発した。昼間は開拓、夜は小舟でイカ釣り、魚釣りに精を出し、開拓した土地には、その日のうちに種を播き、食糧確保のため懸命に働いた。
しかし、赤崎山に移住して3ヶ月が過ぎ、夏も過ぎ秋の気配のする頃、突然の台風により、住居と作物が、壊滅的な打撃を受けてしまった。
しかし彼らはへこたれなかった。永い間の迫害に耐え忍んだ根性があったからである。
嵐が治まるのを待って、再び小屋つくりにかかったが、今度は風のあたらない場所に変えた。
(現在の田ノ浦バス停下)

(5)試練

食べ物の心配から開放され、一息ついてほっとする間もなく、今度は移住者(いつきもの)の場所から、伝染病が発生した。今日で言うチフスか赤痢のことで、当時は流行病、又は「ゴンテツ」と言って大変恐れられていた。医学の進歩もなく、2人、3人と高い熱と下痢の症状が続き、6家族は全家族をあげて、密かに治療に当ったが、近くの村人に知られる所となり、患者をどこか遠い所に移すか全員ここを出るか、選択を迫られた。彼らは海にも山にも行くことを禁じられた。幸にも、症状が少し下火になったので、元気な人が病人を背負い、身支度を整えて、6家族全員が、行く先が決まらないままに歩き出した。
途中で、曲がりの松瀬幸次郎さんという人と出会い、総勢40人ほどが一夜の宿を借りることとなった。その後、大水川原に自分が所有する土地があるので、そこに行かないかという話がされた。

(6)大水川原

翌日、一行は白岳中腹のスリ鉢型をした少し平らな場所に到着した。左右の斜面には畑が広がり、中央には田圃が細長く続き、道端には清水が流れていた。ここが、今後、彼らが生活をすることとなる大水川原である。彼らにとっては、安心して患者の治療もできる最適地であり、感染を防ぐために、少し離れた「アポ」と呼ばれている場所に患者を移し、ゲンノショウコなど自然の薬草を与えて治療に専念した。

(7)黒島第2陣

黒島では、6家族に端を発して島出の気運が広がり、1戸、2戸と島を離れて行ったといわれている。その翌年の暮れ、山口鹿平氏一家が神崎に向け出航し、1陣と同じルートで泊の浦に到着しま着した。土地住民から、1陣の人達は大水川原に住んでいるという情報を得、道順を教えてもらい、大水川原へと向かいました。
1年半ぶりの再会に胸は躍り、これまでの波乱万丈の出来事についての話に花を咲かせ、よろこびをともにした。なお、山口鹿平氏一家は、赤崎山に住まいを構えたといわれている。

(8)五島

五島は、大小百数十の島からなる諸島で、そのうち人の住み着いていた島は34といわれている。中でも福江、奈留、若松、中通、宇久の五つの島が中心になっているため五島と呼ばれるようになったと伝えられている。その、五島をキリシタンの土地として復活させたのは、大村領外海地方のキリシタンたちだった。
西暦1797年(寛政9年)五島藩主五島盛運(もりゆき)は、大村藩主大村純伊(すみこれ)に、「五島は土地が広いのに人が少ない、未開墾の土地が多いから、農民を移住させてはどうか」との話を持ちかけたことがきっかけとなった。
当時の大村藩は土地が狭い上に、領地に人が多すぎ、特に外海地方は山が海に迫った傾斜が急で狭い段々畑を耕しながら、沢山の人が住んでいたので、この地方の農民たちを移住させようとしたようである。農民たちも喜んで応じたといわれている。
その理由は、①立地条件の悪さが生活を苦しくしていた。②人口増加対策のため「間引き」をしなければならなかった。(俗に言う赤子殺し)③取締りが大村藩ほど厳しくなかった。
しかし、現実は「聞いて極楽来て見て地獄」と言われるほどで、よい土地は以前から居る人達に先取りされており、特に上五島方面には、耕作に適した土地は少なく、海岸近くの険しい所を開拓しなければならなかった。
①十分な食料が得られない。②子供が増えるにしたがって分け前が減る。③居付者(移住者)として週に1日~2日、藩主からの命令で苦役に引き出される。このようなことで、生活のため充分な条件とは程遠く、自由に働くことが出来なかった。
このような事から、もっと落ち着いて安心して生活の出来る土地がどこかにあれば、移住したいものだと考えていた。

(9)五島からの旅立ち

そのころ(西暦1882年:明治15年)黒島の人から、五島曽根の江口又吉さんが聞いた話として、
平戸島の油水という所に、上等の土地があるという情報がもたらされた。
そこで早速、どこかに移住したいと思っている人達が寄り集まり、まず土地の下見をし、それから移住するかどうかを決めようということになった。江口又吉、江口八造、藤原多平、丸山喜作、川脇鶴蔵の5人が代表者になって、6月半ば頃に、小舟を仕立てて平戸に向かい、小舟を付けた所は、田助浦の浜尾神社前(現在の山内造船所の横)と言われている。
しかし、黒島から居付いているキリシタンという雲をつかむ様な話で、その人の名前も、居場所も分からないまま、あてもなく歩き始めるしかなかった。
途中で、幸いにも佐藤粂造さんという人と出会い、黒島から来ている人は赤崎に住んでるとの情報と道順も教えてもらい、そこで、山口鹿平さんに会うことになった。
話によると、油水は手遅れで駄目であるが、潮の浦には売れる土地があるということで、鹿平さんの案内で潮の浦を下見に行くことになった。
そこは、上等の土地で、是非手に入れたかったが、金の用意がないため、後ろ髪を惹かれる思いで五島へ引き返していった。

(10)資金調達と土地買収

五島に帰り、土地検分の報告を一同にしましたが、問題は土地購入のお金をどうするかということになった。しかし、いくら話し合ってもない袖は振れぬで、話は進まなかった。
その時、山本嘉市さんがかねてから懇意にしていたブレル神父に話の一部始終を申し上げたところ、800円という大金を快く貸してくれると約束してくれた。
これに力を得た一同は、もう一度土地を検分し、値段しだいでは購入しようということになり、再び平戸へ向け、移住希望者全員が出発することになった。
今回は、前回と違い館の瀬戸を押しのぼり、薄香湾に入り、潮の浦に接岸しました。早速、山口鹿平さんの所に行って相談したが、誰の土地か分からないため、前に道を親切に教えてくれた佐藤粂造さんに尋ねたところ、土地は熊沢伴七郎という家老のもので、本沢五郎という人が管理していることが分かった。
そこで、本沢さんに相談した所、その土地は自分が管理している土地であるから世話してみようということになり、売買金額を待つことになった。結果は、1,000円でならば売るが、それ以下では売らないということであった。
用意してきた金は800円しかなく、もう少しまけてもらいたいのは山々ではあるが、さりとて仲介をしてくれる人を知っているわけでもなく、また、相手は元武士であり「無礼じゃ、さがれ」とはねっけられたら元も子もなくなるので、やむを得ず、1,000円で購入することとなった。
一同は、五島に帰り、家族およびその他の関係者に事の次第を報告し、ブレル神父に800円を借り受け、残りの200円は、上田氏100円、下道氏50円、末吉氏50円を充てることとし、11月末現金を持って、3度平戸に渡り、買収金を払い、土地と畑を17人分、19口に分けて登記し、一同話し合いの上、山本嘉市氏と丸山喜作氏の家を建て、ひとまず五島に帰った。
時は西暦1883年(明治16年)旧正月の15日のことだった。

(11)上神崎教会建設

開拓も一通り終わり、その日その日の生活も何とか出来るようになると、すぐに思い立ったのは、聖堂建設のことだった。それまでは聖堂はなく、潮の浦方面の信徒は下道文次郎氏の家を借り、仁田、大水川原方面の信徒は、橋本幹太郎氏の家を借りて夫々ミサに与っていた。
しかし、日増しに信徒の数は増え、殊に日曜日などは家の中に入りきらず、外の方が多くなる始末で、聖堂建設の必要性が日を追うごとに高まってきた。
ミサに与り告解をし、初聖体や堅信を授かり、結婚の秘蹟を受け、更に死んで墓に入る前に葬式をして清めてもらう、そのためには何としても聖堂が必要だと考えていた。
西暦1887年(明治20年)ラゲ神父とマタラ神父の指図と協力によって、念願の聖堂建設に取り掛かることとなった。
各地区合わせて総勢52、3戸が、敷地の整地造成から材料運搬など、各地区一丸となって精
魂を打ち込んでいった。
彼らの奉仕の精神は徹底し、苦しい生活を更に切り詰め、一銭でも多く建築費に回した。
また、幅広く資金カンパも行い、総工費2,400円余りで、木造瓦葺ペンキ塗りコーモリ天井の50坪あまりの聖堂が、西暦1891年(明治24)3.月6日に、2年半の歳月を経て完成した。また、付属の司祭館も同年10月に完成し、荘厳な献堂式が行われた。
平戸界隈には、一つも見ることが出来ない西洋式の聖堂を眺めて、カトリックでない方々は目を見張り、信徒達は喜びの涙にむせんだといわれている。
田平や紐差に、30数年後に大きな聖堂が出来るまでは、上神崎の聖堂は、北松浦郡唯一の大聖堂であり、北松全域から司祭、宿老、教え方が神崎へ神崎へと集まり、日に日に賑やかになっていった。
殊に、油水には1戸の信徒もなかったが、先達者の指導よろしきもあり、土地管理人の川副氏も、彼らの熱心な説得を聞き入れ、現在の信徒地区を見るに至ったのである。

(12)上神崎教会の増築

その後、27、8年余りの歳月が流れ、信徒戸数も130戸を越える大信徒地区となり、聖堂増設の話が持ち上がり、西暦1914年(大正3年)水浦神父により増築工事が行われた。
内装の補装に加え、窓は全てにステンドグラスを入れ、目も覚めるような色彩に変わった。但し、正面の祭壇上の窓は、昔のままに、記念としてして残された。
なお、西暦1891年(明治24)聖堂新築時の棟梁は、平山司教の遠縁に当たる柄本さんという人であり、西暦1914年(大正3年)時の増設工事の棟梁は、信徒の前田松之助さんだった。

(13)上神崎教会新設および旧聖堂解体

西暦1953年(昭和28年)頃から、新たな聖堂建設の話が出てきた。そのため、西暦1954年
(昭和29年)6月から1戸当り、年3,000円の積立を始め、西暦1956年(昭和31年)まで集めたが
その後はとぎれ、西暦1964年(昭和39年)1月より、1ヶ.月1,000円の本格的な積立を始めた。
積立てた金は司教に預け、新築の際足りない分は司教より借りて、毎月の積立金で支払っていくというシステムだった。
このようにして、西暦1967年(昭和42年)平戸教会主任司祭原塚師の指図と協力の下に、聖堂建設に着手したのである。
新たな聖堂の場所選定については、大いに悩んだようである。論議の末、全信徒の投票によって十数票の差で、現在の場所に決まったとのことである。
潮の浦にあった旧聖堂は、かつては北松唯一の名を誇った6弁円柱の聖堂も、歳月の流れには勝てず、老朽の宣告を受け、長い間、信徒の魂のよりどころであった聖堂も解体のやむなきに至ったものである。
一部には、保存の声もあったと言われているが、売却して1円でも新築費に充てるべきとの意見が多数を占めたため、聖堂だけを解体して、新聖堂の後方に稽古部屋として建てることとし、司祭館と敷地は下道富雄氏に売却することとなった。
そして、西暦1969年(昭和44年)7月14日、上神崎小教区中央部に修道院の農地を譲り受け
また、隣接している農地の所有者、山本関衛氏、藤原太市氏、夫津木キヨ氏の土地も譲り受けて総工費1,200万円で双塔を持つ現代様式の聖堂と付属の司祭館が完成した。
当時の信徒戸数は170数戸であり、聖堂と付属の司祭館を合わせて、1戸当り8万円の負担金
であったと言われている。なお、施工者は、長崎の松尾土建会社であった。